反出生主義者に対する持論

反出生主義を標榜するのはダサい

X(旧Twitter)のプロフィール欄で、〇〇主義を標榜する人をたまに見かける。

反出生主義に限らず、誰かが作った肩書きに頼らなければ、自分の考えを主張できないところがダサい。一見無頼のようだが、帰属意識や権威主義を感じてならない。

そもそも、名前が存在している時点で、ありふれた思想なのである。斬新でもなんでもないし、昔から多くの人が考えてきたようなことだ。

思いついた考えに名前があることを知ったなら、そこで自重しておきたい。「ありきたりなこと思いついちゃったな」と恥じて、自分を見つめ直すきっかけとしてほしい。

大きな流れの一部になって、悦にいるのは、いじめや差別のメンタリティと変わらない。

反出生主義は妄想に過ぎない

人類などの生命は、誰かの意志によって生まれたものではない。それを人間の責任と考えるのは、自意識過剰であり、傲慢である。また、誰の意志でもないものを、コントロールすることもできない。

「今日から子供を生むのをやめよう」と訴えても、世界は微動だにしない。生命の繁殖の駆動力は、人間の思想などには、一瞥もくれない。

いわば、自然災害のような現象に、文句を言っているのに等しい。

「生まれなければ苦しむこともなかった」なんて妄想に過ぎない。その人が生まれた世界が、この世界であって、それ以上でも以下でもない。

また、いつか人類が滅びたとしても、今後どこかで、別の知的生命体が生まれないとも言えない。そうしたら、また、反出生主義が生まれるのだろうか。

反出生主義はアルコールと同じ

しかし、妄想だと切り捨てるのも安直だ。

反出生主義を語る人が、本当にしたいことは、現実逃避かもしれないからだ。つまり、周りとは違うことを考えているという、自分のアイデンティティに酔うことが目的と見ることもできよう。

本質的には、酒を飲んで酔っ払って、会社の愚痴を言っているおじさんと変わらない。そう考えると、一見殺伐とした思想も、なんだか微笑ましく見えてこないか。

反出生主義は、アルコールと同じ嗜好品のようなものである。「妄想で結構」と開き直れるなら、それも自由かもしれない。それがストレス発散になるなら、誰にも咎める理由がない。

もちろん、酔っ払って暴れるのでなければ問題ない、という意味である。

どうあがいても物語からは抜け出せない

人生は物語のようなものだ。一人ひとりが物語のキャラクターである。キャラクターが物語の読者や視聴者になることはできない。

他人と違う思想を唱えて、一段上のステージから見下ろした気になったとしても、ただの錯覚である。ニヒルに振る舞ったとしても、格好がつくわけではない。

だから、自分なりの目的を見出して生きることになる。もしも、生きづらい世の中に問題意識を見出すなら、それが活路になるだろう。

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